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大井川の上流の井川ダムより先にある大仏です。あんがい小さい。後ろでピースしているビシャモンがかわいい。

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事情により横浜まで行く用事ができたので、鎌倉に寄り道してから行きました。具体的には銭洗弁天と鎌倉霊園を見物しました。

以上です。

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三蔵さんと聞くと、西遊記の三蔵さんを思い浮かべますが、ほかにも三蔵法師は、いるそうなのです。

京都に行った時に瑠璃光院に寄ったのですが、そこに「クマラジュウ三蔵」さまが紹介されていました。この方は最初の三蔵法師です。

いわゆるお坊さんの「三冠王」といった称号でしょうか。
そんなことがあるもんなんですねえ。検索したところ、目黒の円融寺は、もともと天台宗のお寺だったのが、日蓮宗に改宗したそうです。その後に、また天台宗にもどったらしいのですが。

また、市川の弘法寺は、行基が造った求法寺を空海が弘法寺と改称し、そのあとで天台宗に改宗したそうです。さらに日蓮宗に改宗しました。

あ、上記のはちょちょいと検索して出てきたwiki情報です。

お寺を運営しているのも人間だし、先代の教えとそりが合わないとか、社会情勢で日蓮が有利だとか、いろんな事情があるのでしょうねえ。
不謹慎なのはわかっとります。

「極楽を再定義」
「わずか二、三回のクリックで、誰でも簡単に往生できる」
「この極楽は、今日から入れる」
「90日以内に死んだホトケは、わずか2600円でバージョンアップできる」

「iGokurakuを通じて、亡者同士のチャットが可能。生者とのアクセスは、今後対応してゆく予定」
「テラ(寺)バイト/Sの回線を使っているので、誰でもリアルタイムで利用できる」
「iGokurakuで、念仏も簡単に同期」
「お供物の記録もiGokuraku上に保存されるので、いつでも再ダウンロードが可能」

いや、ジョブズさんが真宗の坊さんだったら? という、しょうもない思いつきです。
「今」の長さはどれくらいでしょうか。仏教では「刹那」が時間の最小単位だそうです。

現代物理学でも、時間が連続して流れているわけではなく、最小単位時間があり、映画のコマのようになっている、と聞いた気もします。

僕の言う「今」とは、個人が認識できる時間幅のことです。一時間前を「今」とは言いません。一分前はどうですか? 一秒前は? そして、一秒後は?

子どもの頃の僕なら、「今」の長さは一秒と、断言するでしょう。中学生くらいなら「今などない。過去と現在の接点が今であって、大きさを持たない、数学上の「点」と同じだ」と言うかもしれません。

前回書いた時間認識について、ですが。時計のずれが、個人が感じる「今」よりも大きかったら、時刻の共有は出来ない、と考えます。なにしろ、人間は時計なしでは時刻の確認が出来ないのですから。

すると、せめて秒針が同時に動く(体感的で充分)くらいが基準になるのだと、思います。
京極夏彦の「陰魔羅鬼の瑕」の解決部は、埋葬に関する面白い論考です。最近これを何度も読み直し、その後で岩田重則氏の「お墓の誕生」(岩波新書)を読み返しました。

習慣をロジックで見直すと、面白いですね。お盆の迎え火、送り火は、送迎の時に焚くものだと思いますよね。でも、おぼんの期間中、毎日たいている地方がある。ご先祖さまは家に来ているのに、今さら迎え火を焚かなくてもいいじゃないか、と。

僕の親族の葬儀では、寺の坊主が合理的で、告別式の後に、そのまま初七日のお経をあげるんですね。普通は埋葬した後で、もう一度あらためてお経をあげるんだって。

でもそれだと、何度も行ったり来たりすることになるので、いっぺんに済ましちまえ、とのことです。

こうやって、いろんなことが変質して行くのかも知れません。
アップル製品はハードとソフトが一体化しています。MacOSはマックにしか入りません。当たり前ですが。

マイクロソフトはソフトメーカーです。ハードはパソコンメーカーが独自に作り、それにウインドウズをインストールします。

ウインドウズ方式は、霊と肉体が分離可能で、「死」とは、霊が肉体から抜けた状態、とする世界観を連想させます。

この死生観では、霊が本体で、肉体は霊の乗り物/入れ物とする思想になることが多いようです。輪廻転生を考えても、肉体は朽ちて埋められるので、輪廻する主体は「霊」とならざるを得ないでしょう。

パソコンが壊れても、新たなハード(肉体)にOS(人格)を入れ直し、データを復旧することで転生できるのが、ウインドウズ世界です。マックも、データの復旧や、OSのアップデートは出来ますが、まったく異なるマシンにOSを入れ直すことは不可能です。



*これは思いつきの与太話です。
ツイッターに書きましたが、先日、公園で日蓮宗系統の(新興?)宗教の人に声をかけられました。

その人は「中国の侵略がうんたら」と表紙に書かれた冊子を取り出して、「こんなのに興味がありますか? 」と言うのです。見てみたら日蓮なんとか教団とあったので、「日蓮は嫌いだ」と僕は言いました。

中国がなんとか、の話はめんどくさいので、鎌倉仏教論争に逃げ込んだ次第。

僕は禅や浄土に興味を感じます。禅のユーモアや、浄土の投げやりが面白いのです。それに比べて、日蓮宗の堅苦しさ、ファッショさはなに?

禅はかなり個人主義的なところがあり、悟りと言っても「なにそれ? 」くらいのことを言われそうです。「悟るとか、悟らないとか、そんなことはどうでもいいんだなあ」と突き放されそうで、なんかいい。

浄土も要は、念仏を10回となえれば阿弥陀さんが極楽に入れてくれるよ、とそれだけです。信仰心は極楽往生の条件ではない。別にキリスト者でも、念仏を10回となえた実績があれば、極楽に入れるのです。ぬるいねー。

真言は宇宙を自らの中に再構築する試み。言葉はそのツールです。

でも日蓮宗は題目を叫んで、大勢に広めなくてはいけない。うわたまらん。でもってその教義も要は、法華経至上主義。法華を説く日蓮に帰依するから、「日蓮宗」なんでしょ。いやですよ、そんな不気味な坊さんの教え。

と、こんなことを話して分かれました。でもどうせまた、他の人に「大上人さま(日蓮)がうんぬん」とか言ってるんだろうな、あの人は。

*僕は仏教徒ではありません。仏教を楽しく外から眺めているだけ。だから、上の解釈が間違っていたらすいません。
先日、帰宅途中のクルマから「法然上人をたたえる集い」(うろおぼえ)の看板を見かけました。法然上人って誰だ? 看板の端っこに、浄土宗なんたらかんたらと書いてあったので、ああ開祖さんかと思い出しました。浄土宗は、他力本願のところですよね。

あそこは
「釈迦さんは超人だから自力で解脱したけど、俺ら凡人には無理だから阿弥陀さんに助けてもらおうぜ」
の教えだと記憶しています。たしか、念仏を10回唱えるだけで極楽に転生させてくれるんじゃなかったかな。ハードルが低いぜ。


この思想が進むと、
「どうせ凡人の出来る修行なんかたかが知れてるから、全部アミダさまに任せようぜ」
と云うことになり、修行を否定します。水は低きに流れる。


僕は禅が好きなのですが(僕自身が修行をするわけではなく、禅坊主の野放図さが面白い、ということ)、この浄土の教えも面白いな。(無責任(笑い))

浄土と関係があるのか忘れましたが、本覚思想といって、人はみな元から悟っているのだ、とする思想もあります。こりゃいいや、アミダさまも要らないし、教えも必要ない。