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「バベルの図書館」のような連想をしました。

乱数表は、一般にページ一面に文字が埋まっています。これは、たとえば最後の数字を削っても、乱数ですよね。次に、また一つ削って・・と繰り返したら、最後には一つしか数字が残りません。

これでも乱数と言えるのでしょうか? この、乱数と乱数でない数の境目は、あるのでしょうか? あるいはこれも、乱数の濃度なのでしょうか?
機械の行動は、アルゴリズムの実行です。1+1とかそういう計算を行っているだけなのですね。でも、それが充分に速く、そして計算量が多ければ、人間には不可能な領域に踏み込むわけです。

そして判断。

また俳句を例に出しましょう。「あああああ」は無意味な文字列ですが、「あああれを」は意味が読み取れます。機械に言語をインストールして、それと対照しながら意味の通じる文字列を抽出できれば、それは実質的に「機械による俳句の創作」と呼べないでしょうか?

はじめの問題、「機械による乱数の解読は創作か?」は、実質的にYesと言ってもいいと、僕は考えます。
たとえば、存在しうる俳句の数は46の17乗とも、濁音や小さい字も含めて91の17乗とも言われています。つまり、俳句はすでに、組み合わせの上限があるのですね。

原理的には、もう全ての俳句は存在します。俳句生成プログラムを書くことも可能でしょう。「ああああ」から「いあああ」を経て、「んんんん」までを、順番に書き出せばいいのですから。

俳句の創作は、この中から特定の文字列を選び出しているだけ、とも言えるわけですが、実際にはそうは思われていません。俳人は無から俳句を創作している、と思っているでしょうし、読者もそう考えているでしょう。

ここで、「実質的なこと」に戻ります。俳人が行っているのは、原理的には文字列の選択ですが、実質的には無からの創造です。逆に、機械が乱数から意味のある文章を抽出するのはどうでしょうか?
先日の記事では、機械による乱数の暗号解読の可能性を書きました。そしてそれが、機械による創作に該当するのか? との疑問も提示しました。

僕は、仮に乱数から意味を抽出したとしても、それが原理主義的な意味で、「機械による創作」と断言するのは、むつかしいと思います。暗号のアルゴリズムを作るのは人間だし、機械は人間の手作業を代わりに行うだけです。

でも機械に創作ができないのか? というと、それも違うと思うのです。円周率の計算にしても、人間には桁数をどんどん上げるのは不可能なわけです。円周率計算プログラムは、実質的には機械による乱数の生成とも呼べるのではないでしょうか。

この「実質的」が、人間と機械の関係には、非常に大切だと思うのです。

*この記事は草上仁の短編をもとにしています。ばらすと悪いので、作品名は挙げませんが。
前回に続き、今日はもっと圧縮言語を考えてみます。

「前回に続き」これを圧縮するにはどうしたら良いのでしょうか。例えば、常用漢字とひらがな、カタカナを合わせると約2300字。これに番号を付けます。(そのままだと4桁ですが、16進法で記述すれば3桁になります)

すると、「前回に続き」は5文字なので、15桁の数字で表すことができます(16進法表記)。

「586314795863458」適当に打ちましたが、こんな具合。

これを、数学的に圧縮表記すれば、どうですかね。「538^3+1」みたいな。( 当然、この数字も適当です)

原理的には、どんな長い文章でもひとつの数式で表すことができると思いませんか?


バベルの図書館は文書を収蔵しているが、これを画像で出来ないだろうか? たとえば、8万色を使って、2万ピクセル四方くらいのあらゆる組み合わせを試してみる。

使用される色が充分に多ければ、理論上あらゆる絵画、写真、グラフ、設計図、画像で表現可能な全てが得られるはずである。

2万ピクセル四方では収まらない画像も、どこかにその続き画像があるはずなので、組み合わせれば「最後の晩餐」だろうと「天地創造」だろうと、入手可能である。

地球上の、あらゆる軍事施設の詳細な地図、あるいは地球上の人間の数を、時系列にそって正確に示す折れ線グラフなども、どこかにあるはずだ。
バベルの図書館については、すでに何度も書いたのでここでは説明を繰り返しません。今回の妄想は、コンピュータを使ってバベルの図書館を作れないか? という試みです。

まあこれで、今回のエントリはすべて終わったようなものです。以下は蛇足。

つまりですね「AAAA・・・」「BAAA・・・」「CAAA・・・」(略)「・・・ZZZZ」と、可能な文字列を延々と生成するプログラムを組めば、それでバベルの図書館になると思うのです。

プログラムの中に、すでにすべての文字列があるのですから、いちいちこれを動かす必要はありません。肝要なのはロジック。あとは単なるルーチンワークに過ぎません。

あるいは、このアイデアだけですでにバベルの図書館は完結しているのかもしれません。いや、バベルの図書館、の概念だけですべては終わっているのかもしれない。無限大は無限小に収斂するのです。
以前、バベルの図書館を一点に刻む、という趣旨のエントリを書きましたが、ネットを検索してみると、他にも面白いアプローチをなさっている方がいたのでご紹介します。

バベルの図書館を実現する方法 ( 実物つき )
http://www.at-akada.org/blog/2006/12/post-2.html


くわしくはリンク先を読んでいただければいいのですが、要は「バベルの図書館を構成する本をもっと薄くしてみよう」との試みです。

一册の本を一文字まで短縮すると、バベルの蔵書はアルファベット26文字と空白、「,」(コロン)、「.」(ピリオド)の合計29册になります。この29册を組み合わせれば、アルファベットで書けるすべての文章が現れます。(原文ではさらに2進法までふみこみ、0と1ですべてを表現出来る、としています)

説明を端折りすぎましたかね。つまり、バベルの蔵書のフォーマットでは収まらない、長大な文章もあるわけです。ローダンシリーズとか。でもそれは、断片と云うかたちで棚に並んでいるはずなんです。その断片を適切に並べれば、どんな長大な文章でも現出させることが出来ます。

今ここで考察しているのは断片を極限まで短くする試みです。断片が一文字だとしても、その一文字ずつを適切に並べればいかなる文章も表現出来るはずです。これを読んで下さっている皆さんの机には、キーボードがあるでしょう。それはつまり、バベルの図書館そのものなのです。


(「バベルの図書館」は実に興味深いモチーフですね。今後も面白いアイデアがあれば取り上げたいと思います)
バベルの図書館から連想される短編が、いくつかあります。

山尾悠子「遠近法」(ハヤカワ文庫JA『夢の棲む街』に収録)
中井紀夫「見果てぬ風」(ハヤカワ文庫JA『山の上の交響楽』に収録)

僕は、両者とも幻想文学の大傑作だと信じています。山尾悠子は国書刊行会から集成*が出ていますが、中井紀夫はどうだろう。と思いながらアマゾンで検索してみたら、古書**が1円で買えそうです。

さて、二つの作品を並べましたが、これらはまったく異なったベクトルをもつ小説です。山尾の作品は世界の記述がメインであり、ストーリーは無いに等しいものです***。逆に中井は、ストーリーのために世界を消費します。

でもまあ、ストーリーはどうでもいいのです。二人の構築した奇妙な世界はそれぞれ無限を体現しているので紹介してみましょう。むしろその部分こそが、僕がこれらの作品を読む際の最大の関心事なのです。以下、作品の核心部分に触れます。未読の方はご注意ください。



==注意==注意==注意==注意==

「遠近法」の舞台は腸詰世界、あるいは円筒世界です。たとえてみれば巨大な塔の内側です。数限りないフロアがあり、真ん中は吹き抜けになっています。吹き抜けから上下を眺めると、合わせ鏡のようにどこまでもどこまでも回廊が続いています。この吹き抜けを、太陽と月が移動します。

「見果てぬ風」は、巨大な渦巻き型の壁に囲まれた世界です。主人公の男がいくら歩いても、壁の途切れることはありません。壁一枚の向こうに行こうとすると、一年以上かけてぐるっと一周するほかありません。各地にさまざまな文化があり、言葉も異なります。

垂直な空洞と渦巻き、きわめてシンプルながら、同時に緻密な迷宮のようにも感じます。さながら安部公房の書く「箱男」の箱のように。この二つの迷宮の最大の相違点は、閉鎖と開放でしょう。円筒は完全に閉じられていますが、渦巻きは最終的な解放を予感させます。ちなみに「遠近法」はフレームストーリーでもあります。二重の枠の中に円筒世界はあるのです。


==注意ここまで==注意ここまで==



僕は両者ともに、無限を体現していると書きました。壁の中の世界が無限だとは、奇妙なことです。でも百科事典棒がひとつの点に情報を凝縮するように、あるいはクルミの中の世界のように、無限大と無限小はお互いのしっぽをくわえたウロボロスなのかもしれません。


*山尾悠子作品集成
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/433604256X/tsuratsura-22/ref=nosim/

** **「山の上の交響楽」
http://www.amazon.co.jp/dp/4150302847/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1274480367&sr=1-1


***山尾悠子については、僕がいつも読んでいるブログでこんな紹介がされている。
女プログラマってどうよ? ブログ「山尾悠子のこと」
>山尾悠子は、世界を構築することにも興味がないし、
>自分の萌えを開陳することにも興味がない。
>山尾の興味は多分「ことば」そのものなのだと思う。
バベルの図書館は、ボルヘスの考案した観念の遊びです。
ありとあらゆるアルファベットの組み合わせを試してゆけば、理論上、アルファベットで書けるすべての文章が現れる、と云うものです。

未発見の科学法則や歴史上すべての人間の伝記、あるいはまだ生まれてもいない人物の演説などもその中には含まれます。

当然ですが無意味な文字の羅列や、嘘が書いてある文章も出てきます。また、過去の文学作品も含まれるでしょう。すべての組み合わせとは、つまりそう云うことです。

ここで僕が連想するのは百科事典棒です。まず、アルファベットをすべて二桁の数字に置き換えます。Aは01、Bは02、といった具合です。こうすると、ANDは011404と書けます。その後、あたまにゼロコンマを付けて下さい。0.011404ですね。

次に一本の棒を用意します。棒の長さを10センチだと仮定して、1.1404ミリのところに印をつけたとします。棒の長さに対して0.11404の位置の印です。つまりこの点一つでANDの単語を表すのです。

正確に点を打つことが可能ならば、どんな長い文章もたった一つの点で表現出来ることになります。棒一本が百科事典にもなるのです。

これはあくまでも比の問題なので、棒の長さと情報量は関係ありません。爪楊枝一本でも、線路のレールでも、情報的に等価です。

ここでもう一歩、想像してみましょう。どんな膨大な情報も刻めるのならば、バベルの図書館すべての蔵書を、爪楊枝に刻めるのではないのか、と。

世界はたった一つの点によって表現されるのです。