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いつもと更新時間が違いますが、気にしないで下さい。(気にするも何も読者がいないかな?!)

ずいぶん前に吉祥寺のスタディルームで買ってきました。化石がモデルのためか、色合いが不自然です。

恐竜の骨は原生生物とは造形センスが多少異なり(模型のことではなく、骨そのものの形のこと)、そこがまた魅力ですね。これはハードカバーの本棚にぴったり収まるサイズなので、ブックエンドとしても役に立っています。

このシリーズはいくつか出ていまして、僕は他にブラキオサウルスを持っています。翼竜の頭骨模型も欲しかったのですが、買わないまま数年たってしまいました(苦笑
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アニメージュ文庫
首藤剛志

砂漠の街に迷い込んだゴーショーグンメンバー。理不尽な「運命」に対する時空を超えた戦い。

一大冒険アクションを予感させる設定ですが、すこし違います。戦闘は起こりますが、不思議と静寂に包まれた静謐な殺戮です。運命とはなにか? という哲学的な問いかけがメインテーマでもありません。

パラレルワールドのように、メンバーの過去未来がそれぞれ独立して進行し、全ての時空において「運命」がキャラクターを翻弄します。シュルレアリスティックな物語。

天野喜孝のイラストとの相乗効果も抜群。この稿では内容についての説明は最小限に抑えたつもりですので、興味が湧かれた方にはぜひぜひ読んでほしい作品です。

おすすめ。

なお、この作品はオリジナルアニメにもなっています。
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さて今日はアニメ映画ですよ。僕はルパン映画の中で、これと「風魔一族の陰謀」が好きです。ではこの「ルパンvsマモー」はなにが素晴らしいのか?

まず全編にわたる異様な緊張感。
幻想と現実の不気味な暗合。
シュルレアリスムアートがサンプリングされ、夢幻の世界が描き出される。
最後の最後まで(映画が終わってからも)全ての情報が開示されずに、真相がどこにあるのか全く分からない*。

僕は、ルパン作品は冒険活劇ではなく心理劇として構築して欲しいと考えているのですが、「マモー」はその欲求を満たしてくれる数少ない作品です。他には旧ルパンの最初期(「魔術師と呼ばれた男」「さらば愛しき魔女」「脱獄のチャンスは一度」)くらいじゃないかな。

昨日は死刑とか夫婦別姓とか、ちょっとかたい話題を二つも上げてしまったので、今朝はお気楽に好きなものを紹介したです。


*内容に触れています。ご注意ください。
熱にうなされたようなこの映画全編が、冒頭に処刑されたルパンの、死ぬ間際の幻想なのではないか。編中でルパンが夢を見ないことが明らかになるが、それはこの作品世界がすでに夢だからだ。

あるいは夢を見ている主体は、最後に殺される脳髄マモーかもしれない。

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「八月の鯨」はリリアン・ギッシュ主演の可愛いおばあちゃん映画です。おばあちゃんやおじいちゃんのコミュニティとノスタルジイが描かれ、不思議な現実感があります。わが家にはLDがあるのだった(笑い。

あらすじはこちら。ただし、できれば読まずに映画を見たほうがいいです。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD7059/story.html


先日僕が調律におじゃましたお宅は、この「8月の鯨」のようなご家族でした。おばあさんが3人お住まいなのですが、お姉さんとか、そのご主人の妹さんとか、そういうゆるい間柄の家族構成なのですね(ご主人たちは亡くなっているらしい)(僕には詳しいことは分からない)(もし分かっていても、人のプライバシーなのでこれ以上は詳しくは書きませんが)。

皆さんごく普通に接しておられて、仲のよさとかお品の良さを感じました。程よい距離感とでも言うのかな。

夫婦や兄弟とか親子にこだわらず、いま一緒に暮らせる方と時間を分かち合いながら生きてゆく、こういう関係って大事かもしれません。仲良く暮らせる同居人がいるのなら、その人が誰であれいいじゃないですか。

家族をもっと流動的にとらえましょうよ。
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ブログを始めてしばらくたつけど、たいした告知もしていないので(いくつかTBを送ったくらい)、誰かが読んでくれているかも分からない。
おーい、でてこーい。

まあそれはともかく。今日は澁澤龍彦の死刑観について書こうと思います。

(1) 死刑制度には反対です。その理由は、私たちのげんに生きている民主主義社会、制度においても習俗においても完全に聖性を失っている社会では、聖性の可能性においてのみ存在理由を示す死刑を存続させる根拠はない、と考えるからです。

(2) 全地球上から死刑が一掃されるような時代を想像することはきわめて困難です。逆説的なようですが、安楽死がなかなか公認されないのも、同じ理由によると思います。

(「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」(学研M文庫)より引用)


「聖性の可能性においてのみ存在理由を示す」ってのがすごいよな*。死刑はある種の儀式だとか、死刑囚は生け贄とか、そういうことなのでしょうか。その意味では、21世紀日本においても死刑に聖性は存在しません。今や死刑は単なる復讐か、加虐好奇心を満足させるだけの行いです。しかもその根底には「市民感覚」「世論」といったファジーな価値観が見え隠れします。

死刑の聖性といったものをすこし考えてみましょう。「金枝篇」で繰り返し述べられているのは王殺しのモチーフです。世界と王は呼応しており、老いた王を殺すことによって世界はリフレッシュするのです。古代、王は生け贄でもあったのですね。

一方、神がアブラハムにひとり息子のイサクを要求したように、捧げものには一番大事なものが選ばれます。愛するものを捧げるほどの忠誠心を神は試すのですね(神が猜疑心に凝り固まった存在と云うことがよくわかる)。では死刑囚は聖なる人でしょうか? 社会にとって愛される存在でしょうか? そんなことはありません。犯罪を犯し、死穢に触れた方々です(えん罪ではないとして)。

そんな生け贄を捧げることがはたして聖なる行いなのか? 澁澤龍彦の言葉を僕はそう解釈しました。



*普通、死刑に反対するのはえん罪とか、国家による殺人を認めるのか、とか、あるいは教育刑が主流のこの時代に、教育を受けるべき主体(=受刑者)を消滅させるのは論理的におかしいとか、そういう理由がほとんどだと思うのだが。ちなみに僕も「そういう理由」で死刑には反対です。

まあ、この文章は1983年のアンケート回答だから、今の感覚でどうこう言うのはアレかもしれないけど。
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昨日のエントリで紹介した安部公房の「死に急ぐ鯨たち」に、日本人とポリネシア人は、母音に近いほとんどの音を、全部左の言語脳で受けてしまう、という話題があります。

つまり日本語とポリネシア語は言語の中に母音が多く、それを左脳で受けるのですが、自然界には母音に近い音が多いので、自然の音を「意味のある声」として聞き取ってしまうとのことです。犬の声、虫の声、ねこの声といった具合。

逆に、世界のほとんどの人は自然の音を音として聞き取るので、たとえば赤ちゃんの泣き声も単なる音響として受け取るとあります。あまりにも分かりやすすぎて、ほんとかな? とも思ってしまうのですが、実は僕の身近に、人の声を音として聞く人がいます。

このひとDさん(同僚なのでDさん)は、自身がデスクワークをしているときに、目の前でかわされる会話をまったく聞いていなかったりするのです。そばにいるものだから、ふと「今の話、どう思う?」なんて聞いてみても、「え、え、なになに??」となるのです。

Dさんの言い分はこうです。
「外のノイズと同じで、自分に対する会話ではないから声として聞いていない。何か音がするな、くらいで意味を取ろうとする意識がまったく働かない」

僕はDさんとは逆に、わりあい人の話を聞いているたちです。まあたしかに、何かに集中しているときには話しかけられても生返事で、実は全然聞いていなかったりもするのですが。あれ、ということは、Dさんは仕事に集中しているので他のことに意識が向かないだけなのかな??



でもDさんには「目の前の人の話くらい、すこしは聞いてなさい」と言いたくもなります(僕も時々、めんどくさい話は聞いていないフリをするのでアレなのですが)。
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エッセイ、対談集。
安部公房 著
新潮社刊

ためしにここでちょっとした賭けをしてみよう。この一行が書きおわるまでのあいだに地震がくれば、一万円支払います。(P31より)


この文章が書かれたのは1984年。安部公房は箱根に仕事場を持ち、そこで書かれたものだ。彼は今でも賭けに勝ち続けている。箱根に大地震は起きていない。

いつの日か起こる東海地震については、何十年も前から警告がなされてきた。僕の住む神奈川県は、地震が起これば甚大な被害を被るだろうことは想像に難くない。にもかかわらず、家を建てマンションを買いアパートを契約して、いまだに、僕も含めた多くの人が当該地域に居住している。

昨日まで地震は起こらなかったから、今日も大丈夫。まるで「二つの時間が平行して流れているようだ」と安部公房は書く。


たとえば日本がどこかと戦争を始めたとしよう。あなたはその時、今の仕事を続けるだろうか? 僕は続けるだろう。ピアノの調律と云う、浮世離れした仕事だが、戦争中でも居住する地域が無事ならば、年に一度の案内の電話をかけてお客さんを訪問すると思う。ここでも「二つの時間が平行して流れている」。

僕には他に稼ぐ手段がないし、稼がないと日々の食事に困る。マンションのローンも滞ってしまう。これは想像力の欠如なのか、日々の生活至上主義なのかは分からない。だが、戦争中でも生活は続けなくてはならないし、生活の糧を得る手段は限定されているのだ。

宮崎の調律師の方は、口蹄疫禍の中でもしっかりと調律をして歩いているのだろうか?

この本をめくりながら、そんなことをつらつらと考えている。
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書き始めたものの、やる気を失ったり面白くならないなと思ってほっぽり出していた原稿をアトランダムに掲載する、省エネ企画です。


「和声と創意の試み」

いい題ですね。有名な「四季」を含むバイオリン協奏曲集です。僕はビバルディのファンでもなんでもないのですが、これと「調和の幻想」のタイトルが好きで、CDも買いました。全然聴きませんが。



「イドの怪物」

正確な意味はよく知りませんが、僕は部屋とか本棚とか机の上とか、自分の深層心理が表出した場所のことをそう呼んでいます。パソコンのブックマークとか履歴なんかも人には見られたくないな。



「静謐」

僕は静かな本に幻想性を感じます。もちろん騒々しい幻想文学もありますが、静かな文章は好きです。



「アートとは」

造形美術は技術の結晶であってほしい。それが僕のアート観です。偶然だけに頼った造形は、もちろん面白いものもありますが、ちょっと違うんじゃないかなと思います。

なにより美しいもの。
ラインがきちっととれたもの。
こういう作品が僕は好きです。



「シンプルなもの」

僕はおおむね、廉価でシンプルなものを好みます。パソコンはマック、時計はスウオッチ、身につける服は無印かユニクロ。
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Rayレシピノート
主婦の友社刊 1996

今日はお料理の本のご紹介です。
「わたしと彼」のタイトルがいいですね。恋人同士で楽しくパスタを食べよう、と云うコンセプトです。

恋人同士が一緒に手作り料理を食べるシチエーションがどれほどあるのか、想像すると楽しいですね。お互いの部屋に遊びにいくとか、通い婚とか*、同棲とか。

中身も当然、いちゃちゃムードたっぷりです。
混ぜ合わせるだけで簡単に作れるソースの項は、「急に彼が「パスタ食べたい」なんて言ったときに大活躍してくれるはず」と結んであります。

「あなたの彼は(ボンゴレビアンコとロッソと)どちらがお好き?」

「(豪華なお料理のページで)ふたりの特別の日のために、あるいはパーティのときに、腕によりをかけて作りましょう」

「彼とふたりだけの、とっておきの時間のために、大事にストックしておきたいスペシャルディナーメニューです」


さて肝心のレシピです。じつはこれがいいんです。節約料理とか簡単料理ではなく、ほんとうにおいしい料理を作ろうとする気概を感じます。

「魚介のミートソーススパゲッティ」は、いかの足、殻つきえび、殻つきアサリ、殻つきムール貝、アンチョビを用意して、殻を外して包丁で混ぜ合わせながらたたけ、とあります。ほかのお料理でも、野菜や魚介は基本的に生の新鮮なものを、手早く調理するよう書いてあります。スープストックやトマトソース、ホワイトソースの手作りも奨励しています。

きちんとした材料を大事に調理して、おいしいお料理を作ろうとする姿勢に、僕は好感を持ちます。料理に手間をかけるのって、まっとうで健全です。



*内緒だが、実は僕も2年ほど通い婚をしていたことがある。内緒ですよ。
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高野史緒 著
早川書房

人工衛星を打ち上げるほどの科学技術を誇った古代ローマ帝国の没落後、中世世界は暗黒時代にあった。物質の悪意により生まれる、虚弱児や畸形。蒙昧な政治。

歴史に現代のハイテクを持ち込むのは高野史緒の手法である。「ムジカ・マキーナ」ではブルックナーとシンセが、「カント・アンジェリコ」では、カストラートのチャットが描かれている。

本書「アイオーン」でも当然、現代的ハイテクノロジーが外挿される。

十字軍やイスラム社会。イングランドのマーリン。キリスト教公会議。謎に満ちた東洋。中世の闇は闇のまま、神秘思想がテクノロジーによって再解釈され、グロテスクに融合し、また解体される。

本来の意味を失ったガジェットが奏でる不協和音。

幻想文学と呼ぶには、いささか静謐さに欠けるが、非常に面白いSFである。おすすめ。
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