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爪を切ったバラモン

昨日の続き。

爪が長いバラモンさん(「ブッダ」ではサンジャジャさん)はあらゆる物事を疑います。

「トラがウサギを食べるか? ウサギがトラを食べるかもしれん」


これ、実に面白い命題ではあります。仮に、ウサギとトラを念入りに観察した結果、ウサギがトラを食べていることが確認出来たと仮定しましょう。するとどうなるか?

「ウサギがトラを食べる事もありうる」

と結論されます。しかし、今までに観察されていた「トラがウサギを食べる」事実は覆りません。

白いカラスが発見されたとしても、カラスは白い、という結論にはなりません。ここで覆るのは「全てのカラスが黒い」ことであって、「白いカラスも存在する」という注釈が付記されますが、いままでに観察された「カラスが黒い」事実は動かしようがないのです。

ではここで、我らがサンジャジャさんに登場を願いましょう。サンジャジャさんがウサギがトラを食べているところを目視したとします。するとこの人は、「ウサギがトラを食べるか? トラがウサギを食べるかもしれん」と言わざるを得ないのではないですか? (なにしろ「見えるということ自体わしは信じんのだ」と言う人ですから)

なぜこのような堂々巡りに陥るのでしょうか? サンジャジャさんは懐疑を口にするだけで、事実の認識が出来ないからです。上に書いた、「ウサギがトラを食べる事もありうる」以前の段階で足踏みをしているのです、この人は。


全てを疑うのは、全てを信じるのと同じく思考停止だと思います。
by tomoarrow | 2010-07-26 07:04 | モチーフについて | Comments(2)
Commented by たんぽぽ at 2010-07-31 14:59 x
ウェブの議論でも、こういう人、実際にいましたよ。
(さすがに、見えるということ自体信じない、
というほどではなく、自分が理解しているものは、
信用するようだけど。)

ウェブのそういう人は、突き詰めると、
「自分の知らないことは根拠なくて、
懐疑しなければならない」となるみたいです。
(すくなくとも、わたしの印象はそんな感じです。)
Commented by tomoarrow at 2010-08-02 07:35
懐疑と否定が同じだと思っている方もいるように感じます。

懐疑はひとつの手段であって、目的ではありません。肝心なのは懐疑ではなく判断なんですよね。

>「自分の知らないことは根拠なくて、懐疑しなければならない」となるみたいです。

とりあえず疑ってかかることは、まあいいと思うんですが、それだけではやはり足踏みですよね。疑って調べた結果、やはりガセだとかいや本当だったとかの判断が出来ないと、思考停止でしょう。

調べても分からない事は、判断保留にすることも大事ですね。