澁澤龍彦の死刑観

ブログを始めてしばらくたつけど、たいした告知もしていないので(いくつかTBを送ったくらい)、誰かが読んでくれているかも分からない。
おーい、でてこーい。

まあそれはともかく。今日は澁澤龍彦の死刑観について書こうと思います。

(1) 死刑制度には反対です。その理由は、私たちのげんに生きている民主主義社会、制度においても習俗においても完全に聖性を失っている社会では、聖性の可能性においてのみ存在理由を示す死刑を存続させる根拠はない、と考えるからです。

(2) 全地球上から死刑が一掃されるような時代を想像することはきわめて困難です。逆説的なようですが、安楽死がなかなか公認されないのも、同じ理由によると思います。

(「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」(学研M文庫)より引用)


「聖性の可能性においてのみ存在理由を示す」ってのがすごいよな*。死刑はある種の儀式だとか、死刑囚は生け贄とか、そういうことなのでしょうか。その意味では、21世紀日本においても死刑に聖性は存在しません。今や死刑は単なる復讐か、加虐好奇心を満足させるだけの行いです。しかもその根底には「市民感覚」「世論」といったファジーな価値観が見え隠れします。

死刑の聖性といったものをすこし考えてみましょう。「金枝篇」で繰り返し述べられているのは王殺しのモチーフです。世界と王は呼応しており、老いた王を殺すことによって世界はリフレッシュするのです。古代、王は生け贄でもあったのですね。

一方、神がアブラハムにひとり息子のイサクを要求したように、捧げものには一番大事なものが選ばれます。愛するものを捧げるほどの忠誠心を神は試すのですね(神が猜疑心に凝り固まった存在と云うことがよくわかる)。では死刑囚は聖なる人でしょうか? 社会にとって愛される存在でしょうか? そんなことはありません。犯罪を犯し、死穢に触れた方々です(えん罪ではないとして)。

そんな生け贄を捧げることがはたして聖なる行いなのか? 澁澤龍彦の言葉を僕はそう解釈しました。



*普通、死刑に反対するのはえん罪とか、国家による殺人を認めるのか、とか、あるいは教育刑が主流のこの時代に、教育を受けるべき主体(=受刑者)を消滅させるのは論理的におかしいとか、そういう理由がほとんどだと思うのだが。ちなみに僕も「そういう理由」で死刑には反対です。

まあ、この文章は1983年のアンケート回答だから、今の感覚でどうこう言うのはアレかもしれないけど。
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by tomoarrow | 2010-06-18 07:19 | モチーフについて | Comments(0)